前橋汀子 世界で羽ばたき、駆け抜けた軌跡。
2011年11月17日(木)「前橋汀子 ヴァイオリン・リサイタル」

日本を代表するヴァイオリニストのパイオニア

●ヴァイオリンを始めたきっかけ

自由学園の幼児生活団に通っていた4歳の私は、そこで情操教育の一環としてヴァイオリンかピアノのどちらかを選ぶことになりました。両親も格別音楽に縁がなかったので、ピアノよりは小さなヴァイオリンの方が安易だろう、といった単純な発想で母がヴァイオリンに決めました。それに体が小さかった私には、きっとピアノより小さなヴァイオリンの方が合うだろう、という思いもあったかもしれません。

 

●小野アンナ先生との出会い

5歳のとき、せっかく始めたからにはきちんと先生について、ということでご紹介してくださる方がいて、小野アンナ先生(本名:アンナ・ディミトリエヴナ・ブブノワ  1898〜1979)のもとで本格的にヴァイオリンの勉強を始めました。アンナ先生は旧ロシア貴族出身で、物理学者の小野俊一さんと結婚されロシア革命を逃れ日本に来られました。先生は、世界のヴァイオリンの巨匠たちを数多く輩出したことで有名な、サンクトペテルブルク音楽院のアウワー教授のもとで学ばれました。クラシック音楽でさえ大変稀であった当時の日本で、先生は子供たちにヴァイオリンを教えることに全てをかけ、それを生き甲斐とされていました。今の日本のクラシックヴァイオリン界の基礎を作られた方です。 また先生は、来日した祖国ソ連からの演奏家たちと母国語で語り合い、祖国の音楽事情などを聞いたりするのを楽しみにされていたのだと思います。ご自宅に演奏家たちを時折お招きになり、彼らにご自分の生徒たちの演奏を聴かせたりもしていらっしゃいました。

私はというと、好きとか嫌いとかいうより以前に、朝起きて顔を洗ってご飯を食べて、学校に行ってという1日の生活の中にヴァイオリンの練習時間が組み込まれている日々でした。週2回の小野アンナ先生のレッスンは祝祭日も一切関係なく、お正月でも休みなしでしたので、子供心にレッスンに行く、ということが何かとても神聖で大変重要な役割を占めているように感じていました。

 

●オイストラフの演奏を聴いて

「本当にヴァイオリニストになりたい」と思ったのは、日本とソ連の国交回復後初めて来日した、今は亡きヴァイオリンの巨匠オイストラフ(ダヴィート・オイストラフ  1908〜1974)のコンサートを聴いたときからです。彼の演奏はそれはまさに楽器があたかも体の一部になって響いている感じで、その時「ロシアに行くとああいうふうに弾けるようになるのではないか」と強く思ったのです。よほど感動したのでしょう。それからは「私は絶対にロシアに行く、行きたい!」ということが夢になりました。

当時は母が大変入手困難なチケットを買い求め、少しでも多く海外からの一流の音楽家のコンサートを私に聴かせようと苦心していたようです。

その頃のコンサートのひとつに1953年、のちにスイスで教えを受けることになるヨゼフ・シゲティ(1892〜1973)の日比谷公会堂でのコンサートがあります。それは今でも私の脳裏に焼きついています。彼はプロコフィエフ(セルゲイ・プロコフィエフ  1891〜1953)の訃報に接し、アンコールにプロコフィエフのヴァイオリン・コンチェルト第1番の第2楽章を弾きました。また、同じ日比谷公会堂の立見席で聴いたエルマンのベートーヴェンのクロイツェル・ソナタ第3楽章の彼の独特な弓づかいがとても印象的で、それも鮮明に覚えています。

●いよいよソ連へ!

「私は絶対にソ連に行く、行きたい」という思いはますます強くなり、中学1年のときからロシア語の勉強を始めました。今のようにテレビ、ラジオの語学講座や語学学校等々が手軽に身近にない時代に、ロシア語を勉強するというのは想像以上に困難なことでした。当時ソ連は共産主義政治体制の時代で、日本でロシア語を勉強するのは、思想家や政治関係の仕事の人で、私のような子供は珍しかったはずです。テキストもマルクス、レーニンといったような、子供の私には日本語だけでも難しいものばかりでした。それでも「ソ連に行きたい」という思いだけで、一生懸命勉強していました。

小学校の後半から桐朋学園の音楽教室に通い、斎藤秀雄先生に師事しました。音楽教室の先輩には小澤征爾さんもおられました。オーケストラの練習で軽井沢の夏のセミナーに参加したり、さながらクラブ活動の合宿や修学旅行のようで、そこでのことは楽しい思い出でいっぱいです。海外に行くことさえ現代の人たちには想像できないくらい大変な時代に、ましてや共産主義体制のソ連に行く、というのは夢のまた夢のような話でした。最初は、私のそんな考えに両親は勿論反対でした。私は相当頑固だったらしく、一歩も引かず、一途に「行きたい」の思いで頑張り、そのうち両親もソ連行きには反対しなくなり、やがて承諾してくれました。

私は高校2年のときに外務省の試験を受け、サンクトペテルブルク音楽院(当時はレニングラード音楽院)の創立100周年記念に日本から初めての留学生として、真夏の横浜港から“モジャイスキー号”でサンクトペテルブルクへ向け出発しました。

今振り返ってみて、私のこの留学が実現した影には、数え切れないたくさんの人たちの力と助けと思いがあったのだということがわかりました。ずっとあとになって、元総理大臣の大平正芳さんの奥様にお会いする機会があり、そのとき「あなたのことは主人から聞いていました。主人が外務大臣の時、日本からソ連へヴァイオリンの勉強に行きたいという女の子がいて、何とか実現させてやりたい、と申していました。」とおっしゃられ、びっくりしました。

 

●サンクトペテルブルク音楽院にて

以前、フィリアホールでのコンサートの折り、観客の方が横浜港から船で私が留学したときの新聞記事のコピーをくださいました。ソ連に行ったのがそれほど珍しい時代で、新聞に写真入りで大きく取り上げられたのです。出発のとき、小澤征爾さんがお餞別にビニールでできた膨らませて遊ぶ河童の人形をくださいました。あの頃からユーモアとアイディアのある方だったのですね。

船で3日間、シベリアを横断する汽車と飛行機を乗り継いで、1週間の長旅の末到着した帝政ロシアの都は、エルミタージュ美術館、キーロフ劇場といった荘厳、壮大で魅惑に満ちた街並みがネヴァ河にそって広がるまばゆいばかりの芸術と文化の都でした。

音楽院には3年間通い、ミハイル・ヴァイマン先生に師事しました。先生からは、音楽だけでなくその背景にある歴史、文化、芸術といったものを学ぶように教えられました。プーシキンやチェーホフの作品を読み、キーロフ劇場でオペラやバレエを観て、エルミタージュ美術館で絵画や彫刻の美術品を鑑賞し、それを心の糧として、豊かな感性を磨くように、と。それは、今に至るまでの私の人生の基礎となっています。

当時のソ連の芸術や教育のレベルは素晴らしかったのです。音楽院にはヴァイマン先生はもちろん、ロストロポーヴィチ(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ 1927〜2007)も毎週教えに来ていましたし、そのほか世界中で活躍していた一流の演奏家も国内で指導することが義務付けられていたのでしょうか、そういう人たちの演奏を聴き、教えを受けられたことは、一番良い時代に留学していたのかもしれません。クラスにはいつもピアノの演奏をしてくれる人が2人も待機していて、「なんて整った環境なのだろう」と感心したものです。これはロシアの古くからの習慣らしく、一人の際立った才能を育てるために、周囲でどれだけ高度な技術、教養を持った人たちが支えていたのかが分かりました。そういった厚い層の人たちに育てられた音楽家が、また同じようにあとに続く者に教えていくわけですから、素晴らしい音楽が伝統として生まれているのは当然のことなのでしょう。これはなにも音楽の分野に限られたことではないと思いますが。

共産主義下で一派の人々の日常生活には張り詰めた空気も漂っていました。3年間は寮生活で、厳しい条件のもと学生の誰もかれもがみな必死で勉強をしていました。それぞれに練習場所を確保するのさえ大変で、私は毎朝4時に起きて音楽院に通い、授業が始まるまで空いている部屋を転々としたり、あちこち階段の踊り場といったような場所を見つけては勉強していました。異国の地でただ一人、厳しく張り詰めた生活から病気になってしまいました。十分に療養し回復してからまたロシアに戻ろうと、3年ぶりに日本に帰国しました。

 

●私が出会ったロシアの巨匠たちの思い出

私が留学していた当時のロシアの音楽界には、ヴァイオリンはオイストラフをはじめ、コーガン、クリモフ、ピアノはリヒテル(スヴャトスラフ・リヒテル 1915〜1997)、ギレリス、チェロはロストロポーヴィチとキラ星のごとく巨匠たちが活躍し活気に満ちていました。

なかでも印象的だったのは、初めて聴いたムラヴィンスキー(エフゲニー・ムラヴィンスキー 1903〜1988)指揮のレニングラード・フィルによるチャイコフスキーの悲愴交響曲。それはそれまで私が思っていた激しく濃厚で感傷的なチャイコフスキーの音楽の概念とはまったく違った、言葉では 言い尽くせない深く心を揺すぶられる感動的なものでした。

 

ストラヴィンスキー(イーゴリ・ストラヴィンスキー 1882〜1971)が50年ぶりに生まれ故郷ペテルブルク(当時のレニングラード)に戻り、自作の曲を指揮したコンサートにも聴きに行きました。祖国の聴衆から熱狂的な歓迎を受け何度も何度もステージに呼び戻され、オーケストラの団員が立ち去ったあとも拍手は鳴り止まず、オ ーバーを着て帽子をかぶり、ステッキを手にトボトボとステージに現れた姿を、私は2階のバルコニーの立見席からずっと見ていました。その日のことは、自分が着ていた洋服まで鮮やかにはっきりと覚えています。

●ロシアからアメリカへ

体調が回復したらまたロシアへ戻るつもりでいたところ、日本にその頃演奏旅行で来ていたジュリアード・カルテットのロバート・マン(1920〜)さんに出会いました。マンさんのお力添えがあり、今度はジュリアード音楽院への留学が決まり、ニューヨークに渡りました。 旧ソ連とアメリカという冷戦時代の対極にあった2つの超大国で勉強できたということは、振り返ってみるとなんと貴重な体験をしたのだろうとしみじみ思います。

●恩師シゲティとの出会い〜ヨーロッパへ

いつかはシゲティ先生のレッスンを受けたいと思い続けていました。私のアメリカ留学時代の1960年代後半、当時すでに引退されスイスのレマン湖畔のモントルーに住んでおられたシゲティ先生のもとをニューヨークからお訪ねしました。先生のレッスンを受けに通い続けるうちに、モントルーの街のたたずまいとその風景にひかれ、ニューヨークから今度はその地に移り住みました。それからはそこを拠点に、ヨーロッパでのコンサート活動が始まりました。

また、スイスに住んでいたその時代にナタン・ミルシュテイン(1903〜1992)に出会い、彼からも教えを受けました。シゲティ先生は1973年に亡くなられましたが、今先生の家には娘のイレーネさん(ピアニストの故マガロフ夫人)が住んでいらっしゃいます。ヨーロッパに行った際、スイスに立ち寄ったとき等々、今でもイレーネさんと電話でお話をしたり、お会いしたりすることがあります。

そして1980年代、日本に帰ってきました。

 

《世界のオーケストラ、指揮者との共演歴》

‘70/4
ストコフスキー指揮によるアメリカンシンフォニーで、ニューヨークカーネギーホールにデビュー

‘71/6〜
ズービン・メータ指揮のロサンジェルス・フィルと共演
ナタン・ミルシュテインの代役でイスラエル・フィルと8回共演
ルドルン・ケンベ指揮のロンドン・ロイヤル・フィルと共演、ロンドンでデビュー
その後、ロンドン・ロイヤル・フィルのアメリカツアーのソリストとして、ニューヨーク、ボストン、フイラデルフィア、シカゴ 等々の全米各都市での22回のコンサートで共演

‘71/9〜
ニューヨーク州のサラ・ローレンスカレッジにレジデンス・アーティストとして招聘される

‘72〜   
スイスに居住を移し、ヨーロッパ各地での本格的な演奏活動を開始
ベルリン・フィル、ベルリン放響、ミュンヘン・フィル、ハンブルク交響楽団、フランクフルト放送管弦楽団、バイエルン 交響楽団、ハンベルクシンフォニー、ロンドン・フィルハーモニー、ロンドン・ロイヤル・フィル、スイスロマンド管、バイエ ルン放響、フランス国立管、モンテカルロ国立管、スペイン国立管、クリーブランド管、ヒューストン管、レニングラー ド・フィル、ヘルシンキ・フィル等々と共演
指揮者:メータ、ロストロボヴィチ、サバリシュ、クンベ、スラトキン、マズア、エシェンバッハ、マゼール、プルゴス、スタ イン、小澤征爾、等々

‘72/10 
イタリアのアルベルト、クルチ国際コンクールで優勝

‘75
スイスのジュネーブにおいて、スイスロマンド放管との国連コンサートに招待され、その演奏は全ヨーロッパに放送された

‘79/8  
NHK交響楽団のアジア、中国、オーストラリア演奏旅行にソリストとして同行、北京、香港、シンガポール、バンコク、 マニラ、ジャカルタ、シドニー、その他各地で公演

‘80
日本に帰国。
以後日本を本拠地として内外を含め、NHK交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、九州交響楽 団、札幌交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団、東京交響楽団、東京 都交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団などのオー ケストラとの共演及びリサイタルなど年間100〜130回のコンサート活動を行い現在に至る

《公演詳細》